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平成14年1月19日
弘化4年12月22日(1848年1月27日)〜昭和9年(1934年)5月30日
神奈川県横須賀市 戦艦三笠の前でお会いしました。
東郷平八郎は弘化4年(1847年)12月22日に鹿児島の薩摩藩士の四男として生まれました。
薩英・戊辰戦争に参加後、イギリスに留学し、日清戦争では戦艦「浪速」の艦長として出征しました。
この時、豊島沖で清国兵を輸送中のイギリス商船を国際公法にもとづいて撃沈し有名となりました。
日露戦争では連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊と戦い完勝し、提督としてネルソンと並び称されました。
戦後は海軍軍令部長となり元帥となり、大正期は東宮御学問所総裁となりました。
昭和8年暮れに病床につき、昭和9年(1934年)5月30日に没しました。
6月5日に国葬が執り行われ、東郷邸から日比谷の葬儀場までの沿道に60万人、葬儀場付近に70万人、葬儀場から多摩墓地までの沿道に55万人、合計185万人が見送ったと言われています。
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東郷平八郎誕生地 (鹿児島県鹿児島市・中央高校) 「東郷平八郎君生誕之地」の碑が建っています。 (平成12年3月26日) |
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旧書斎 (福岡県久留米市・久留米城跡) 東郷平八郎が大佐の頃使われていた書斎だそうです。 内部を見学することは出来ないようです。 (平成16年6月12日) |
東郷元帥旧書斎由来記
東郷元帥(1847−1934)は日露戦争(1904−5)のとき連合艦隊司令長官として日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、国難を救い日本の名を世界に輝かした人であるが、その人柄は謙虚寡言ひたすら国を愛する以外に余念がなく、国民の師表、護国の聖雄として内外から敬慕されていました。
久留米市出身で実業界に活躍された故小倉敬止翁は熱烈な元帥の崇拝者で、元帥が大佐の頃使用されていたこの書斎を特にお願いして拝受し、郷土の人と共に記念しかつ子弟の教育資料とするため大正15年(1926)久留米市に寄贈され、終戦後は当神社境内に移されていましたところ、長年月による腐朽甚しく心ある人々の胸を痛ませていました。
ブリジストンタイヤ株式会社社長石橋正二郎氏がその郷土愛の発露として、篠山城趾に有馬記念館を建築寄贈されるに当り、日頃私淑される元帥の書斎をも現在地に移築復元し、後世の人々に元帥の遺徳と小倉翁の遺志を示されんとしたものであります。
1960年3月 篠山神社
(説明石碑より)
| 高陞号撃沈事件 |
日清戦争中の明治27年(1894年)7月25日、巡洋艦『浪速なにわ』(艦長:東郷平八郎)は清国軍艦『操江そうこう』とイギリス国旗を掲げた輸送船『高陞号こうしょうごう』を発見。
士官を派遣して『高陞号』を監検かんけんしたところ、清国にチャーターされたイギリス船で、清国兵1,100名、大砲14門を載せいていることが判明した。
東郷は随航ずいこうを命じ、イギリス人船長は応諾したが清国兵達が船長を脅迫してこれを拒否。
交渉4時間後、東郷は撃沈を決意。
「ただちに船を見捨てよ」と船員に信号し、危険を示す旗を掲げた上で『高陞号』を撃沈し、イギリス人船長らをボートにより救助した。
この”高陞号撃沈”の報が伝わるとイギリスの世論は激昂げっこうした。
しかし、やがて事件の詳細が分かるにつれてイギリス国内から東郷の処置は国際法にに則っているという弁護の論説が現われ、イギリスの世論も沈静化した。
(平成18年7月27日記)
(参考文献:『歴史街道』2006年5月号)
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。
東郷元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
(碑文より)
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東郷元帥邸のライオン像 (東郷元帥記念公園) (平成18年7月14日) |
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力石 (東郷元帥記念公園) (平成18年7月14日) |
千代田区指定有形民俗文化財
『力石』
指定 平成4年4月
「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守ちんじゅ、神社境内、会所かいしょや村境むらざかい(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代よりしろとしている神々も多いとされています。
また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切みちきり」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋おおわらじ」などと同種のものと考えられます。
しかしこれらは、石神いしがみ等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病えきびょうの侵入を防ぐための神であり、呪まじない等であったようです。(疫病は道を伝わって来ると信じられていました。)
公園内にある「力石」の由来は詳つまびらかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
なお、本ほん力石の表面には「五拾七貫目ごじゅうななかんめ」(約213.75キログラム)との銘文めいぶんがありますが、実際に計量したところ、146.4キログラム(約三十九貫目)でした。
平成5年3月
千代田区教育委員会
(説明板より)
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東郷元帥記念公園 (東京都千代田区三番町18) (平成18年7月14日) |
千代田区町名由来板
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組おおばんぐみ」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。
ここから、「番町ばんちょう」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。
また、御厩谷おんまやだに坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩うまや(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政5年(1793)、塙保己一はなわほきいちが、この地に幕府の許可を得て和学講談所わがくこうだんしょを開きました。
保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従ぐんしょるいじゅう』という書物の編纂で知られる学者です。
幕末の兵学者村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂きゅうきょどうを開きました。
さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲みしまちゅうしゅうが二松学舎にしょうがくしゃ(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
(説明板より)
三番町
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。
邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥げんすい記念公園になり、四番町との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
また、『墨東綺潭ぼくとうきだん』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。
与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹てっかんも一時この地に住み、雑誌『明星みょうじょう』を創刊しました。
錚々そうそうたる人物の顔ぶれがそろう三番町です。
国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。
三番町町会
(説明板より)
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「仁風閣」の額 (鳥取市・仁風閣) これは、明治40年(1907)5月、当時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓のお供をされた東郷平八郎が殿下のご宿舎となった建物を「仁風閣」と命名して書かれた直筆の書です。 (平成16年11月19日) |
勝利の神様
御祭神の東郷平八郎命は、弘化4年(1847)12月22日薩摩藩士東郷吉左衛門の4男として鹿児島市加治屋町でご誕生、昭和9年(1934)5月30日午前7時、88歳で東京麹町三番町で薨去されました。
御祭神は、幕末19歳で薩摩藩の海軍に入り明治維新前後の海戦に従事、明治4年(1871)24歳の時にイギリスに留学してウースター号等で7年間厳しい訓練に耐え、船乗りとしての知識と技術を修め、海軍魂を培って帰国し立派な日本海軍士官となりました。
以来戦略や国際法の勉強にも励まれ、巡洋艦浪速の艦長としてハワイがアメリカ合衆国に併合された際(1893)や日清戦争中(1894〜1895)の難しい国際問題等を処理し東郷の名は世界的に有名になりました。
さらに、日露戦争(1904〜1905)では聯合艦隊司令長官として三笠艦上に「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」とのZ旗を掲げ、露国のバルチック艦隊を日本海において撃滅して世界の海戦史上空前絶後の完全な勝利を成し遂げられました。
この大勝は、わが国を国難から救っただけではなく、当時ロシア等大国の植民地政策の圧力下にあった国々に、大きな喜びと希望を与えました。
大正の始めに元帥府に列せられ、大正3年(1914)から7年間東宮御学問所総裁として昭和天皇の御教育の大役を果たし、明治、大正、昭和の三朝に至誠一貫奉仕、国家の重鎮、まごころの人として、日本だけでなく世界の人々からも英雄「大東郷」と尊敬されるようになりました。
昭和9年日本の偉大な世界的英雄が天寿を全うされるや「至誠(まごころ)は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を長く後生に伝えて顕彰するため、神社にお祀りしてほしいとの要望と献金が全国各地から海軍省に届き、この熱意に応えて時の大角海軍大臣は各界の識者にはかり、財団法人東郷元帥記念会を設立、全国民に呼びかけて国民からの浄財によって神社を創建することになりました。
御鎮座地は、明治神宮に近い元鳥取藩主池田侯爵邸を選び、昭和12年9月に地鎮祭、同15年5月27日(日本海海戦で完勝した日・当時海軍記念日)に御鎮座祭が行われ、欅と檜素木、神明造檜皮葺の東郷神社が完成しました。
東郷神社では、御祭神の聯合艦隊解散の辞にある有名な「神明は唯平素の鍛錬に力つとめ戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之をうばふ古人曰く勝って兜の緒を締めよ」に因み、勝利の神様として御真筆からとった「勝」の字を勝負の御守『勝札』として授与しております。
(原宿 東郷記念館のリーフレットより)
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境内に展示されている絵 韓国南岸の鎮海湾で敵発見の報告を受けた東郷司令長官は、直ちに出撃し旗艦三笠に「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」を意味するZ旗を高く揚げさせた。 (展示絵画説明文より) (平成18年1月24日) |
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境内に展示されている写真 海戦第2日の明治38年(1905)5月28日残った敵艦はわが艦隊に囲まれて降伏した。 右手の2本煙突が旗艦ニコライ1世(実写) (展示写真の説明文より) (平成18年1月24日) |
東郷蔵由来
昭和20年5月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。
同23年5月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して三十数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の50年祭に当り従前の蔵の姿を模して少し大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。
昭和59年5月28日
社務所
(説明文より)
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