岡崎城の徳川家康像 平成14年9月14日

徳川家康 とくがわ・いえやす

天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)

愛知県岡崎市 岡崎公園(岡崎城)でお会いしました。


岡崎城主・松平広忠の長男として生まれますが、6歳から織田信秀、8歳から19歳まで今川義元の人質となりました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が敗死後に自立し、織田信長と結んで三河を平定しました。
1566年徳川に改姓、元亀元年(1570年)居城を浜松とし、姉川の戦いで織田信長を助け、長篠の戦いで武田氏を破りました。
駿府に居城を移し駿河・遠江・甲斐・信濃・三河の五ヶ国の経営にあたりましたが、北条氏の滅亡後に関八州に転封となりました。
豊臣秀吉の死後はいわゆる五大老の筆頭となり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で石田三成を破り天下を統一しました。
1603年征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きました。
1605年に将軍職を秀忠に譲った後も駿府で大御所政治をとり、元和元年(1615年)大阪の陣で豊臣氏を滅ぼしますが、翌年駿府城で病死しました。
遺言で久能山に葬られましたが、後に日光山に改葬されました。


徳川家康公銅像



徳川家康公銅像
(愛知県岡崎市・岡崎城)




(平成14年9月14日)

徳川家康公銅像

天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
以後持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

(説明板より)

岡崎城



徳川家康が生まれた岡崎城です。
ここには「産湯の井戸」や家康の人形が能を舞う「からくり時計」などがありますが、写真を撮るのを忘れたぁ〜




(平成14年9月14日)

徳川家康像 平成16年11月28日

静岡県浜松市・浜松城本丸跡でお会いしました。

若き日の徳川家康公像



『若き日の徳川家康公』像

(静岡県浜松市・浜松城




(平成16年11月28日)

銅像撰文

徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。
父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。
元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。
その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。
そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。
浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。
乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。
像は浜松時代の若き日の公の姿。
手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。

昭和56年12月20日
徳川家康公若き日の銅像建設委員会

彫刻 水野欣三良
鋳造 河野敏彦
台座 株式会社林工組

(碑文より)



徳川家康像 平成16年11月28日

静岡県浜松市・浜松城天守閣内でお会いしました。

説明板より

市制施行70周年並びに浜松市観光協会創立30周年の記念事業として、「徳川家康若き日の銅像建設委員会」を結成し、多数の市民の協力により建設された。
昭和56年12月20日
除幕式挙行



徳川家康銅像 平成14年11月23日

静岡県静岡市 駿府城でお会いしました。

駿府城



駿府城の巽櫓と御東門
(静岡県静岡市)




(平成14年11月23日)

久能山の家康の廟所


徳川家康の廟所
(お墓)です。
静岡県静岡市の久能山東照宮の本殿の裏にあります。
重要文化財に指定されています。





(平成14年11月23日)

重要文化財神廟しんびょう

家康公は元和2年(1616年)4月17日に薨去こうきょせられ御遺命ごいめいによってこの地に埋葬し奉った。
廟の高さ6メートル、西向きになっている。

(説明板より)


雲立のクス



雲立のクス
(静岡県浜松市・浜松八幡)




(平成16年11月28日)

雲立くもだちのクス

昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会

楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。
枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。
幹は地上1.5mのところより数枝に分かれ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051)八幡太郎義家が当八幡宮に参籠の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。
また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの古事により「雲立の楠」と称されるようになった。

(説明板より)


芝東照宮



芝東照宮

(東京都港区芝公園4丁目)





(平成18年2月22日)

芝東照宮鎮座由来記

(御祭神)
徳川家康公
(創祀沿革)
当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於て祭儀をなされた寿像である。
元和2年4月17日、公の薨去こうきょの際、公より「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。
明治以降、神仏分離令により、芝東照宮となった。
旧社殿は権現造りで国宝になったが、先の戦火で焼失し、現社殿は昭和44年完成する。
公の御神徳による東部を鎮護する代表的なお社です。
徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉、慎重、堪忍、自責、簡素、倹約です。
以て世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土おんりえど、欣求浄土ごんぐじょうどの御旗に託しているのです。

平成6年4月17日
芝東照宮社務所

(説明板より)


上野東照宮



上野東照宮
(東京都台東区上野公園9−88)





(平成19年4月28日)

上野東照宮とうしょうぐう (国指定重要文化財)

台東区上野公園9番

藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは、寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。
正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになったのである。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り変えたもの。
その後数回、修理を加え、現在に至る。
社殿の構造は、手前から拝殿はいでん・幣殿へいでん(石いしの間ともいう)・本殿からなり、その様式を権現造ごんげんづくりという。
華麗荘厳を極め、金色堂とも呼ぶ。
本殿・拝殿・幣殿は、唐門からもん・透塀すかしべいとともに構造・様式がすぐれ、貴重であるので、国の重要文化財に指定されている。
参道入口の石造明神みょうじん鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠50基も国指定の重要文化財である。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

銅燈籠



銅燈籠
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

銅燈籠どうとうろう

台東区上野公園9番

東照宮社殿唐門からもん前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。
燈籠は神事しんじ・法会ほうえを執行するときの浄火を目的とするもの。
照明用具ではない。
浄火は神事・仏事に使う清めた火。
燈籠は上部から、宝珠ほうじゅ・笠・火袋ひぶくろ・中台ちゅうだい・竿さお・基壇で構成されている。
火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。
火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現とうしょうだいごんげん霊前に奉納したもの。
竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。
それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏もうか17日奉献2基となっている。
慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。
その日の奉献数が最も多い。
これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

唐門



唐門
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

唐門(唐破風造り四脚門)

日本には一つしかない金箔の唐門である。
扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
明治40年に国宝に指定された。

(説明板より)

本殿・金色堂



本殿・金色堂
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

 (関連商品のご紹介)

徳川幕府  徳川  徳川家康  東照宮


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