寺内寿一 てらうち・ひさいち

明治12年(1879年)8月8日〜昭和21年(1946年)6月12日


山口県出身。
寺内正毅元帥の長男。
近衛歩兵第3連隊長、朝鮮軍参謀長を経て第4師団長を務める。
2・26事件後、広田内閣の陸相(陸軍大臣)に就任して粛清人事を行なう。
1937年(昭和12年)、”腹切り問答”で政党と衝突し、内閣総辞職の原因を作る。
日中戦争時は北支那方面軍司令官に任ずる。
太平洋戦争では南方軍総司令官。
敗戦後、シンガポールで抑留中に病死する。


寺内家墓所


寺内家墓所


山口県護国神社から200メートルくらい離れた山の斜面に寺内家の墓所があります。



(平成15年7月27日)
寺内寿一の墓



元帥陸軍大将寺内寿一墓





(平成15年7月27日)

陸軍大臣 寺内寿一の「衛生省」設置の提唱

寺内寿一が陸軍大臣時代、兵力の根源である壮丁(兵士)の体格は年々低下し、また結核死亡率は年々増加の傾向にあった。
満洲事変で、陸軍2個師団(約2万名)の兵隊を満洲に送ったところ、1個大隊に相当する約500名が結核を発病して帰還してしまった。
これらの現象は、英米による経済圧迫、浜口内閣の金輸出解禁の失敗、アメリカの恐慌の余波による生糸の暴落などによって、都市、農村ともに失業者が増加し、日常生活にもこと欠く家庭が続出したことによるものである。
よって、昭和11年7月の閣議に陸軍大臣寺内寿一は保健国策樹立の必要性を提唱し、健兵健民政策の必要上、強力な衛生行政を行なう主務官庁として「衛生省」を作ることを提唱した。
しかし、この案は内務省をはじめ各省が、機構の不備な点を突いて反対したので撤回された。
翌年6月、第一次近衛内閣が成立すると、「保健社会省」と名前が変わって提出され、日中戦争の開始がこれに拍車をかけて、昭和13年1月、「厚生省」という名称の下に、日の目を見るに至った。

参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」

(平成17年7月23日追記)


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