松平定信像 平成15年7月5日

松平定信 まつだいら・さだのぶ

宝暦8年12月27日(1759年1月25日)〜文政12年5月13日(1829年6月14日)

福島県白河市 南湖公園でお会いしました。


8代将軍徳川吉宗の孫。父は御三卿の田安宗武。
10代将軍家治の世氏に望まれましたが、田沼意次らにより白河松平家(久松氏)に養子に出されました。
天明3年(1783年)家督を相続して白河藩主となります。
4年後、老中首座に就任。
吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。
しかし、尊号事件や大奥に対する引き締め策が原因で、寛政5年(1793年)に辞職しました。
白河に戻ってから、藩校立教館の充実、「白河風土記」の編纂、一般庶民の教育機関・敷教舎ふぎょうしゃの設置などの文教政策を進めました。
また、南湖の魚介養殖奨励などの殖産興業も行いました。


松平定信公之像 南湖公園の「松平定信公之像」

協賛者
桑名ライオンズクラブ
大田原ライオンズクラブ
白河ライオンズクラブ
南湖共栄会
日本航空株式会社

(平成15年7月5日)

松平越中守定信公略記・碑文

白河藩主 宝暦8年(1758)田安宗武の子として江戸城内にて生れる のち松平定邦の養子となる 天明3年(1783)家督相続 白河11万石の城主となる

折から天明の大飢饉 奥羽諸藩多くの餓死者を出す この時 公は緊急に食糧を輸入 領民に配る ために領内から餓死者を出さず 殖産では 養蚕の普及 植林 製紙 製陶 たたらの設置など自給自足の基盤を確立

文化では 日本最初の公園 南湖の築庭 白河の関の検証 集古十種 花月草紙等多くの著述 郷学校敷教舎 藩校立教館の設置等教育に意を尽くす

藩政は 「政者正也」を理念として行う このため名君として領民の崇敬を受ける

天明7年(1787)幕府老中首座となり 国政に参与 寛政の改革を断行 文化9年(1812)家督を定永にゆずり 楽翁(先憂後楽の意)と号す 文化12年(1829)江戸にて歿し 深川霊巖寺に葬す 享年72

白河小峰ライオンズクラブ創立15周年記念事業
白河ライオンズクラブ
大田原ライオンズクラブ
合同事業
昭和63年9月25日建立


日本最古の「公園」 南湖公園

南湖は名君であり茶人、また優れた作庭家であった白河藩主、松平定信(楽翁公)により、1801年に造園された我が国最古の「公園」です。
「南湖」の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」から、また白河城「小峰城」の南に位置していたことから名付けられたといわれています。
定信はこの庭園において身分の差を越え庶民が憩える「四民(士農工商)共楽」という思想を掲げ、「共楽亭」と称する茶室を建て、四民と楽しみを共にしました。
その志はいまなお受け継がれております。
そして創設より200年の時に磨かれた公園は、松、吉野桜、嵐山の楓など四季折々に典雅な風趣をたたえ、花と緑の水の園として市民をはじめ多くの人々を魅了し続けております。

(パンフレットより)

翠楽苑 翠楽苑[すいらくえん]

南湖公園日本庭園

楽翁公の庭園思想の精神を引き継ぎ、日本文化の伝承を体現する施設としてつくられた日本庭園です。

開園時間:午前9時〜午後5時(冬期は4時30分まで)
休園日:毎月水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始

(平成15年7月5日)
松楽亭[しょうらくてい]

呈茶が楽しめる書院造りの施設です。
松楽亭
松楽亭の茶室

ここでお抹茶をいただきました。(有料)
お客は私一人・・・・
庭園を散策している観光客から丸見え。
好奇な目で見られ、恥ずかしいやら緊張するやら・・・

楽翁公像 平成15年7月5日

福島県白河市 南湖公園内「南湖神社」でお会いしました。

楽翁公像 南湖神社前の「楽翁公像」

楽翁公とは松平定信のことです。
南湖神社 南湖神社

南湖神社御祭神 白河楽翁公について

白河楽翁公を祭る南湖神社は、出世大明神・学業成就・商売繁盛・除災開運・交通安全・縁結びの神として古くより信仰されております。

徳川幕府八代将軍吉宗公は、将軍家に世継がないときのために、田安家・一橋家・清水家の御三家を立てられました。
白河楽翁公即ち白河城主松平定信公は、田安家に生まれ、十代将軍家治公には世継がなかったので、十一代将軍になるべき方と見られていました。
しかし、老中田沼意次の策略によって田安家より養子にだされてしまいました。

楽翁公は十七歳の時に白河城主松平定邦公の一人娘峯子姫の婿養子に定められ、十九歳で結婚し、二十六歳で定邦公に替わって白河城主となりました。

おりしも当時は天明の大飢饉で、食うに食なく死者累々たるものでした。
楽翁公は関西地方に使者を出して食べられるものを買えるだけ買いこんで白河に運び、人々にほどこされました。
そのため、白河藩だけは餓死者を一人も出さずに済んだのです。
こうしたことから、楽翁公は世に名君と誉めたたえられました。

十一代将軍には一橋家より家斉公がなりました。
楽翁公は白河藩での善政が認められて、将軍補佐役に抜擢されました。
元々の血筋もあり、三十歳で老中首座・今の内閣総理大臣の職に就き、天下の政治を行いました。
そしてあの有名な「寛政の改革」という、歴史に残る立派な政治を行われたのです。

楽翁公は幼少の頃より神童のほまれが高く、学者として政治家として武術家として、あらゆる方面に非凡な功績を残されました。
著書も百八十二冊と多くあらわされ、いずれも学術的な価値が高いものです。

その為、南湖神社は諸願一切成就の守護神として特に信仰されているのであります。

楽翁公によって造られた南湖は、日本における最初の公園といわれております。
現在は、文部省より史蹟名勝地に指定され、かつ福島県立自然公園でもあり、山紫水明の公園であります。
ちなみに楽翁公は築庭にもすぐれた才能を持ち、金沢の兼六園や岡山の後楽園は公が命名した公園であります。

四季折々に美しい南湖公園に鎮座し、御神威赫赫たる南湖神社に重ねてご参拝ください。

(パンフレットより)


南湖神社宝物館について

この宝物館は南湖神社御鎮座60年記念事業として建設されたものであります。
即ち昭和55年がその年に当たりますので、同年5月3日に南湖神社御鎮座60年記念事業宝物館造営奉賛会が結成され、会長に白河商工会議所会頭須藤久弥氏を推し、以下役員を選任し、直ちに全市にわたり募金活動に入り市内各町の神社崇敬者を始め、県内外の崇敬者の方々より浄財の御寄進を頂き予定通り3年計画で総額2千万円余の経費で昭和58年5月に完成したものであります。
本宝物館の設計には市内鈴木昭建築設計事務所が当り、工事は市内株式会社鈴木建設が担当して竣工したものであります。
本館内には当神社御祭神松平定信公(白河楽翁公)に関する御宝物を収蔵いたしました。
また定信公を日本の名君、東洋の偉人として崇敬され、明治、大正、昭和の三代にわたり各界に活躍され且わが国繁栄の大本を確立された偉人渋沢栄一閣下から奉納された国宝級の絵画等が陳列されてあります。

(拝観券の説明文より)

拝観料:初穂料として、大人350円、小人200円

宝物館の公式HPへ行く


松風亭蘿月庵


松風亭蘿月庵しょうふうてい・らげつあん

南湖神社内に移築されている茶室です。
社務所に頼めば有料で敷地内の見学が出来るようです。



(平成15年7月5日)

白河市文化財(建物)指定
蘿月庵由緒

蘿月庵は風雅の茶室である。
寛政年間、城主松平定信の臣、三輪権右エ門(号待月)が其の父、長尾仙鼠の為に経営したもので、元白河市九番町松並にあったが、松平氏桑名へ移封の折、中町常盤惟親譲り受け、邸内に移した。
後、一時、西白河郡役所の所有に帰したが、大正13年5月、南湖神社境内に移された。
城主定信は(晩年、楽翁を称す)殊の外、この茶室を愛し度々ここに遊んだが、一日たわむれに、その水盥をとり、中に蘿月の文字を印たるより、この茶室を蘿月庵と称するに至ったものである。
因に様式は道安好二畳台目で、傑作の名が高い。
現在はここで毎月第二日曜に茶会が行われている。

昭和42年
白河市教育委員会

(説明板より)

福島県指定重要文化財
松風亭蘿月庵一棟

附 「蘿月」の書がある水盥 1個
   「垂桜(すいおう)」の書がある掛軸 1個

平成6年3月31日指定

所在地 白河市字菅生館二番地 南湖神社境内
所有者 南湖神社
形状 桁行三間余(5.64メートル)
    梁間一間半余(2.92メートル)
    入母屋造り[いりもやづくり]、茅葺

寛政年間(1795頃)、白河藩士三輪権右衛門が、茶人であった父仙鼠せんそのために府内九番町の別邸内に建立させたと伝えられている茶室です。
藩主松平定信も時折訪れたとも伝えられており、その筆による掛軸の「垂桜」や水盥の「蘿月」などの書も残されております。
文政6年(1823)松平氏の桑名への国替えに際して常盤惟親ときわ・これちかに譲渡されて、その屋敷内に移され、明治の初めこの屋敷が西白河郡役所の敷地に転用された後もその一隅に存続しましたが、大正12年(1923)5月に南湖神社に寄贈され、現在地に再度移築されたものです。
二畳台目の使用などいわゆる道安好みを基調としている茶室で、由緒が明確で、原形をよく保っており、東北では数少ない近世茶室の一つです。

福島県教育委員会

(説明板より)


ひと言

説明板の説明には注釈を入れていただけるとありがたいのですが・・・・
わかったようなわからないような文字が並んでいるのですよ。
自分なりに調べてみました。

※水盥=盥は「たらい」のことだから、水を入れる丸くて平たい器と解釈していいのかな?
※二畳台目=(にじょうだいめ)丸畳二畳と台目畳一枚を敷いた茶室のことだそうです。
※道安好み=道安とは千道安という人のことかな?千道安は千利休の長男、この人の好みといういう意味かな?


藤田記念博物館・明治記念館

藤田記念博物館・明治記念館


南湖神社のすぐ側にあります。
しかし、閉鎖されていて廃墟のようになっていました。
もったいないなぁ〜


(平成15年7月5日訪問)

藤田記念博物館
明治記念館


この記念館は財団法人藤田教育振興会が運営し、教育環境事業及び文化の向上などに寄与することを目的にしています。

館内には白河城主で名君と、うたわれた松平定信(楽翁)の遺墨、手焼きの水差しなど楽翁公ゆかりのものを中心として郷土に関係のある考古資料、その他が展示されています。

明治記念館は明治16年建築の西白河郡役所をこの地に一部移転、復元したものです。

財団法人 藤田教育振興会

(説明板より)


南湖だんご

名物・南湖だんご


定信公の公園築造時、工事人夫たちに愛好されて以来200年の歴史を持つ「だんご」だそうです。
小粒な「だんご」でしたが、おいしかったです。


(平成15年7月5日)

古関蹟の碑

「古関蹟」の碑
(”白河の関”にあります)

松平定信が寛政12年8月に、ここが”白河の関”であることを確認して建立した碑です。


(平成15年7月5日)

樊獪石と猫石


樊獪石はんかいせき(右側の石)
(東京都目黒区・防衛研究所敷地内)


左の石は「猫石」です。


(平成17年1月20日)

樊獪石はんかいせき(右側)

この石は、白河楽翁松平定信(1758〜1829)が1792年(寛政4年)に築いた浴恩園(春風・秋風二つの池を配し小石川の後楽園と並んで江戸名園の一つに数えられるものであるという)に据えられていた京都鴨川産の銘石である。
同地は、維新後海軍用地となり、この石も庭園に趣を添えていたものであろうが、昭和5年9月海軍技術研究所が目黒に移転の際、猫石と共に移されたものである。
尚、樊獪とは、中国漢は高祖劉邦の功臣の名であり、定信が寛政の改革業半ばにして、1793年(寛政5年)7月老中及び将軍補佐役を辞し、更に1812年(文政9年)封地を嫡子に譲り、専ら浴恩園に隠栖して風雅な生活を楽しんだと言われるが、その心事の一端を表したものであろうか。

※浴恩園
陸奥白河藩主松平定信(越中守)の作庭した庭園で、名園として知られていた。
明治になって荒廃し、現在は東京都中央卸売市場になっており、築山の一部がわずかに残っている。

猫石ねこいし(左側)

この石は、芝赤羽町の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
同地は、維新後の明治4年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、次いで明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治35年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門内正面へこの石が移された。
明治43年海軍造兵廠が築地の海軍用地へ移転の際、この猫石も移された。
(海軍造兵廠は、大正12年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)
海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和5年9月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿彌作「有松染相撲浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。
この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。

(説明板より)

防衛研究所



防衛庁防衛研究所

(東京都目黒区中目黒2−2−1)




(平成17年1月20日)

浴恩園跡


浴恩園跡
(東京都中央区築地5−2−1)

中央卸売市場正門脇の塀に「説明銘板」がはめ込めてあります。




(平成18年2月22日)

都旧跡 浴恩園跡

所在 中央区築地5丁目2番1号 東京都中央卸売市場内
指定 大正15年4月26日

江戸時代中期の陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって寛政の改革で幕政の建て直しを行ったが、老後には将軍よりこの地を与えられた。
当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、浴恩園と名付けて好んだという。
明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して著しく園池の風景を変えた。
さらに、大正12年12月、日本橋にあった魚市場(俗に魚河岸)がこの地に移転して来るに及んで、かつての浴恩園の面影はまったく消滅し、現在は東京都中央卸売市場が設置されている。

平成6年3月31日 建設
東京都教育委員会

(銘板の銘文より)


松平定信の墓



松平定信の墓

(東京都江東区白河1−3−31・霊巖寺)





(平成18年2月22日)
松平定信の墓所




松平定信の墓所






(平成18年2月22日)

史跡 松平定信墓

所在 江東区白河1丁目3番32号
指定 昭和3年1月18日

松平定信(1758〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。
定信は老中になると直ちに札差ふださし統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計った。
また朱子学者でもあり『花月草紙』『宇下の人言』『国本論』『修身録』などの著書もある。

昭和51年3月31日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

霊巖寺



霊巖寺

(東京都江東区白河1−3−31)





(平成18年2月22日)

 (関連商品のご紹介)

松平定信  寛政の改革  老中


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