石川啄木 いしかわ・たくぼく

明治19年(1886年)2月20日〜明治45年(1912年)4月13日


本名は一はじめ
岩手県出身。
明治35年(1902年)カンニング事件で盛岡中学を中退し、上京。
与謝野寛(鉄幹)の知遇を得て『明星』ほかに詩を発表。
明治39年(1906年)、生活のため小学校代用教員となり、以後、地方紙の記者として北海道各地を点々とする。
再び上京して小説家を志すが失敗。
失意の思いを短歌に表し「一握の砂」を書く。
生活に根ざす文学を唱えて評論「食ふべき詩」を発表。
明治43年(1910年)大逆事件の報道に衝撃を受けて社会主義に興味を持ち、自然主義文学批判の評論「時代閉塞の現状」を書く。
明治44年(1911年)、詩風も変化し、「果てしなき議論の後」などを創作。
翌年、肺結核で没す。27歳。
没後、歌集「悲しき玩具」が刊行された。


蓋平館別荘跡



蓋平館がいへいかん別荘跡

(東京都文京区本郷6−10−12・太栄館)





(平成18年3月11日)

石川啄木ゆかりの蓋平館がいへいかん別荘跡
(文京区本郷6−10−12 太栄館)

石川啄木(一はじめ・1886〜1912)は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館せきしんかん(オルガノエ場内・現本郷5−5−6)に下宿した。
小説5篇を執筆したが、売り込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑の『東海の・・・・・』の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞とどこおり、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。
三階の三畳半の室に入ったが「富士が見える、富士が見える。」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影ちょうえい』を書き、東京毎日新聞社に連載された。
また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人めいぎにんとなった。
北原白秋、木下杢太郎もくたろうや吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2−38−9)の喜の床とこに移った。
ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃太栄館たいえいかんと名称が変わったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児
(明治41年9月14日作・蓋平館で)

文京区教育委員会
昭和56年9月

(説明板より)

新坂



新坂
(太栄館の側の坂道)





(平成18年3月11日)

新坂

区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。
『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其そのきわまる所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。
名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館がいへいかん別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。
この坂は、文人の逍遥しょうようの道でもあったと思われる。

昭和63年3月
東京都文京区教育委員会

(説明板より)


歌碑

歌碑
(東京都中央区銀座6丁目6−7朝日ビルディング前)

京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな

啄木

(平成18年6月26日)

碑文

石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治42年3月から45年4月13日27歳でこの世を去るまでの約3年間である
この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し 庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである

昭和48年4月1日
日本大学教授 文学博士 岩城之徳

”京橋の瀧山町の”由来

京橋の名は 維新後の明治11年に新たに制定された区名で 昭和22年に現在の中央区に改められる70年の間 都民にしたしまれてきた区名です
瀧山町の名は 江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので 昭和5年銀座西6丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です
現在は中央区銀座6丁目と又新しく表示されております

昭和48年4月1日


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