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平成16年11月11日
天保5年12月12日(1835年1月10日)〜明治34年(1901年)2月3日
※公式の誕生日は天保6年1月10日(旧暦の12月12日)だそうです。
東京都港区・慶應義塾大学三田キャンパスでお会いしました。
豊前国中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ、幼時に中津に帰る。
長崎遊学、大坂で緒方洪庵の蘭学塾に学ぶ。
安政5年(1858年)江戸鉄砲洲の中津藩中屋敷内で蘭学塾を開く。
万延元年(1860年)幕府使節に随行し渡米。
翌年から1年間ヨーロッパを歴訪。
元治元年(1864年)幕臣・外国奉行翻訳方となる。
慶応2年(1866年)『西洋事情』を刊行。
慶応4年=明治元年(1868年)塾を慶應義塾と改称。
明治7年(1874年)から三田演説会を開いて都市の民権運動を主導。
明治9年(1876年)『学問ノスゝメ』17編が出版される。
明治12年(1879年)東京学士会院の初代会長に選ばれる。
明治15年(1882年)『時事新報』を創刊して皇室論・女性論・アジア攻略論を展開。
明治18年(1885年)『脱亜論』『日本婦人論』を時事新報に発表。
明治31年(1898年)脳卒中で倒れる。
明治33年(1900年)特別講演を行い、「独立自尊」などの「新時代の修身要領」を発表。
明治34年(1901年)1月1日、『痩せ我慢の説』を時事新報に掲載し、徳富蘇峰と論争となる。
同年1月25日、脳卒中を再発し、2月3日、脳溢血のため三田の自邸で没す。68歳。
(平成18年2月17日改訂)
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慶應義塾図書館(旧館) (東京都港区三田2−15−45) 旧図書館前に福沢諭吉の胸像が建っています。 (平成16年11月11日) |
重要文化財
慶應義塾図書館
この建物は義塾創立50周年を記念し明治45年4月、工学博士曽禰達蔵、工学士中條精一郎両氏の設計監督によって完成したもので、外国人の手を全く借りずに造られた洋風煉瓦館としては一級品である。
震災、戦災による被害を修復し、今日なお当初の遺構を留めている。
煉瓦建築の少ない我が国にあって、建築史上貴重な存在である。
様式 ゴシック式
建築面積 684.4平方メートル
昭和44年3月12日 指定
(説明板より)
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三田演説館 (平成16年11月11日) |
重要文化財
三田演説館の由来
慶應義塾の三田演説館は、福澤諭吉先生によって建設されたわが国最初の演説会堂である。
開館は明治8年(1875)5月1日、はじめはいまの塾監局の北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。
構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであって、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。
規模は床面積191平方メートル余、一部が二階造りになっていて、延面積は280平方メートル余りになる。
福澤先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸に無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。
まさに、三田演説館はわが国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。
慶應義塾
(説明板より)
碑文
幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)
こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である
先生の父百助は一画に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗吏に奔命して其生涯を終った人である
彼は妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであろう
當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか
昭和29年1月
慶應義塾社中建之
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書 西川 寧
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福沢諭吉誕生地 (大阪市福島区福島1丁目) 豊前国中津藩蔵屋舗跡 (平成20年6月18日) |
慶応義塾
明治の初めの慶応義塾は日本一との評判があり、官立の学校よりも有名であったが、当時は入学資格も厳しくなく、誰でも入学できたから有名だったともいう。
また、当時の慶応義塾は福澤諭吉の方針により、一種の天才教育を行い、試験の成績や教師の認定により一時に何級でも進級させたという。
(慶応義塾出身の俊才)
犬養毅、尾崎行雄
参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』
(平成19年3月6日追記)
慶應義塾大学
安政5年(1858年)にはじめた蘭学塾を、慶応4年(1868年)芝新銭座に移して、『慶應義塾』とした。
明治4年(1871年)に三田に移転。
明治23年(1890年)大学部を置く。
大正9年(1920年)に「大学令」で『慶應義塾大学』となる。
三田の土地は、国からタダ同然に払い下げられた1万4千坪の好所で、福沢自身も、「東京中を探してもこれに優る土地はない」と言っていたという。
参考:『歴史街道 2001年5月号』
(平成18年2月17日追記)
「慶応義塾発祥の地」碑・碑文
安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ。
慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代発祥の地として記念すべき場所である。
1958年4月23日除幕
「蘭学の泉はここに」碑・碑文
(前面)
1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅にあつまった。
良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。
3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。
それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、これから蘭学がさかんになった。
このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。
(裏面)
1959年・昭和34年3月5日
第15回日本医学会総会の機会に
日本医史学会
日本医学会
日本医師会
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日本近代文化事始の地 「慶応義塾発祥の地」 「蘭学の泉はここに」 1982 2月3日 (東京都中央区明石町・聖路加国際病院斜め前) (平成18年2月22日) |
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福澤諭吉終焉の地 (慶応義塾大学三田キャンパス内) (平成16年11月11日) |
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平成20年9月15日
東京都品川区・常光寺でお会いしました。
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福沢諭吉像 (東京都品川区・常光寺) (平成20年9月15日) |
この福澤諭吉先生の胸像ブロンズは三田山上慶應義塾大学図書館正面入口に建っている胸像の原型を復元したものである。
当山浄境の福澤諭吉先生永眠の地に之を建て永く先生の遺徳を顕彰する。
2006年2月3日
常光寺 第18世 光譽壽雄
寄進 梅田石材 梅田武久
(碑文より)
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史蹟 福澤諭吉先生永眠の地 (東京都品川区・常光寺) (平成20年9月15日) |
明治34年2月福澤諭吉先生永眠のとき此處に埋葬せらる
先生の生前自ら選定し置かれし墓地なり
昭和52年5月福澤家の意向により同家の菩提寺麻布山善福寺に改葬せらる
よって最初の塋域を記念するため之を建つ
昭和53年5月14日
慶應義塾
(碑文より)
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常光寺 (東京都品川区上大崎1−10−30) (平成20年9月15日) |
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